なびす画廊

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 「L0301」,油彩,アクリル,45×90cm×3枚組,2003年

助川 文子展
SUKEGAWA Ayako
2005.08.29(月)―09.03(土)

作品を制作することの自分の中の源流について考えると、幼い頃、新聞に入ってくる折り込み広告の裏に描いた、意味も意識も存在しないらくがきにいきつくように感じる。
幼い頃の自分にとって毎朝、新聞とともに届く折り込みにらくがきすることは、呼吸することや好きなだけ眠ったり食事したりすることと同じくらい生活の一部で、とても大切な時間だった。カラフルな印刷がされた折り込み広告の裏に毎日、鉛筆で、ときにはマジックで描き続けた稚拙ならくがきはその後、ずっと後になってから覚えた「真っ白な紙に描く」ことよりずっと私にとっても身近な存在だった。
折り込み広告はもちろん毎回同じものが届くわけではない。写真が違い、書かれている文字が違い、色が違い、紙が違う。私が描いた「線」とその隙間を埋めるそれらの、一見、私自身とはなんら関係の無さそうな「情報」たち。幼かった私にとって当然そのほとんどは「必要のないもの」として意識する前に分別され処分され消滅していったであろうものたち。しかし、そこに私がなにかしらを描いた瞬間それは「らくがき」に変化する。分別され処分され消滅していったであろう「情報」はたまたそんな「情報」の中に埋没する私の描いた「線」。それは呼吸のように、どちらかに吸収され、また離別することを繰り返していたように感じる。
芸術を志し、大学に入学して卒業して、自分の作品について言葉を用いて語らなければならない機会が増えるのつけ、私は自分の描く「線」に対して「情報」という言葉を多く使った。「真っ白な紙に描く」ことを覚えたように芸術について考えることは、しばし自分と作品の間に距離をつくる。そんな中、周囲を見回したとき、私はよく「かたち」が崩れ
流れているように感じる。それこそ、あふれんばかりの自分を取り囲む「情報」にデジタルだとかアナログだとかジャンル分けする意味も無いほどの流れを感じるのだ。
折り込み広告が写し出す情報が毎回違うように、それら私をとりまくすべてが、そして私自身も作品も毎日「時間」だとか「変化」だとか色々な流れの中で自らノイズを生み、その刹那、それらは「かたち」となまた霧散していくのだろう。
では、自分が制作することによってなにを呼吸しているのか?
確かめるようにそれを探し続けている。
「ながれ」を吸収して、その一瞬の「かたち」に出会うために。

世界に吸収され、また離脱していく瞬間を見極めている。

作家ホームページ→『Gratefuldays』


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