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山田 和夫展/山田工務店 パフォーマンス
YAMADA Kazuo/YAMADA-KOHMUTEN

2006.08.21(月)―08.26(土)
パフォーマンス:25日(金)7:00pm〜


ほぼ2年半振りの個展になります。
今回は山田和夫が主催する演劇ユニット、
「山田工務店」の公演(金曜夜のみ)
を含めて御覧いただく予定です


<作家コメント>
「自分が何処にも収まらない、その収まらないという所に身を委ねる」
世界が資本主義の目的性に添って造られて行く、我々の生活、
丸ごと資本主義の枠に吸収され意識の解体と絶望が進行して行く、
逃げる事は、不可能なんだと思わせる消費社会、顔の見えない巧妙な搾取、
もはや世界中がもの言えぬ収容所と化したかに見える。だが資本主義そのものが
お金の幻想とも言うべき目的性を持たざるを得ないならば、目的性故の整合性から
外れた事柄に意識をシフトする事、極めて個人的に。

風が吹いている、木々がそよぐ、でも風そのものは、見事に見えない。
その見えない空気そのものは、からだの大事な見えない器官で在り続け、
からだに於ける「距離」は、常に総体化している... 筈である。
その見えない空気の計測出来ない身体の空間性を「観る事の空間性」
のごとき方法としたのが絵画であり、ダンスである... 筈であった。

しかし現実は、常にT字路にさしかかった時の正面性と否応無く向き合い、
まるで道に迷った時の混沌とした風景の中にいるようだ。

東京湾の入り口を見下ろす鋸山の見晴らし台で、のんびりと湾を眺めている。
後ろに南房総の山浪がひろがり左に太平洋、向かいに三浦半島を望む大パノラマである。
久里浜から金谷を行き来するフェリーが丁度今、出航していくのが見える。
この広大な風景の中では、湾を航行する船も海沿いを走る車もほとんど止まっている様に見え、
その静かな静止画の風景の中を一匹の鳶がゆっくり旋回していた。
忙しすぎる毎日、「少しお休みすれば」の一言に、「休みがこんな意味の無い毎日の為に
あるのならやはり意味が無い」と言いそうになる。だいぶ疲れが溜まっている。
久里浜港から一人でフェリーに乗り湾を渡る、そこからロープウェーで山頂に、昔から
神奈川の小学生のポピュラーな遠足コースで大して期待もせず来てみれば、下からでは、
解らない広大な風景の中にいた。景色が眼に張り付いてくる感覚に思わず嬉しくなる。
しかしこの広大な空間とゆったりした時間の中でさえ、ここまで来た行程(久里浜にある火力
発電所の煙突、フェリー乗り場、ロープウェー)を一つ一つ確認している自分に気付く、
この見晴らし台にも昔ながらのコインを入れて覗く望遠鏡が在り、切ない生活者の自分と
重る。いつの頃からか出口の無い暗いトンネルに迷い込み、造られた明日の為に造られた今日を
生きている、「見てみろ、忙しく立ち働く我々の生活の姿がこの広大な風景のなかでは、ほんのひとこまでしかない」と自分に失望しながらも思う「やはり意味が無い」。
大して高くないこの山に沿って大きな黒い雲が東京方向に移動していくのがみえる、意味の無い
日々の暮らしの違和感から来るイライラの訳が解る、「近くは、見えない」という事か、
鳶が海からの気流に乗りしばらく空中に留まって飛び去る。地形的スケールも然る事、鳶の
姿にしばし見とれる。何か解った気がした、「孤独は、美しい」、もちろんこの場合の孤独は、「掛け替えの無い自分」という意味に於いてだ。
ここから太平洋の水平線に眼をやる。水平線がわずかに湾曲して見える。よく人は、地球が丸く見えると言うけど地球は、そんなに小さく無い、眼の機能的限界ー「視界の領土化」である。気分よく見えてるこの風景も今の自分の有り様をとりあえず気付かせてくれてはいるが実際には、自分を軸にした方向からしか見ていないことになるらしい。

「家の裏庭に一本の桃ノ木があるのだが幹の芯のほうは、すっかり蟻に食われ上部の枝を辛うじて物置の屋根に乗っけるかたちで、毎年きれいな花を咲かせ実をつける。あらためて幹の太さというのは、上部の枝を支える為にあるのだという事と植物は、表皮と環境に於いて成り立っている事が良く解る。しかしこれは、すごく奇妙な事だその桃ノ木には、年輪が蟻に食われて無いのだ、ただ表皮とその環境だけで桃ノ木であることを主張している、どこか人工的に造られた構造物のなかに身を委ね消費社会の中でもがきながらも満足げな我々の姿に似ている。ちなみにこの桃ノ木は、昨年の台風で根本から折れて今は、無い」
自分が何処にも収まらない、その収まらないという所に身を委ねる
愛とか恋がそうであるようにどうして沸き立つような時を人生上に設定できないのか
取りあえず新たな海に自分を浮かべてみる事だ

         国家を
海とする

2006年個展・パフォーマンスへ向けて



・・・剪定された木を見ていると、改めて我々の目は木が
揺れていることで風を認識しているのが解る。
切り口から先のかつて枝が占有していた所だけ、
あたりの木々のざわめきと明らかに違う静寂が形を持って
見えてくる。切り口の面はさながら異空間としての舞台のようだ。・・・
<パフォーマンス「剪定」2005年リーフレットより一部抜粋>




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