なびす画廊

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「気分2 No.3」
(8.5×8.5×13cm)
2002
ブロンズ


企画
山崎 豊三展
YAMAZAKI Toyomi

2002.12.24(火)―01.18(土)

 | 作家コメント |
葦叢の中
 
葦叢の中を歩いたことがあるだろうか。
葦は背丈より遥かに伸び、周りの世界から私を隔離してしまう。私が確認できる外の世界は空だけである。
周りには葦の厚い壁が広がり、風が葦の葉を揺する音のむこうに微かに周りの世界の音がする。
歩き回ると、いったい自分がどの辺にいるのかも見当が付かなくなってしまう。

ムッとする程の葦の匂いの中で、そのよく肥えたしかもスッと伸びた葦は、色気さえも感じさせる。
誰かが居るような気がして、振り向いてみるが、誰も居るはずもない。
しかし、もしもそこに女の人が立っていて、私を見つめていたら、私はいったいどうするだろう。

葦叢の中は確かに妖しい気分で満ちている。
 
妖しい気分は次第に私を支配して、葦叢の中をあちらこちらへ連れまわすのである。
  
ところで、作品を作り始める時に抱くあの気分は、いつもこんな気分に近いのだ。何かに魂を抜き取られてしまうような、あるいは、魅入られたような。
私の意志とか意識とかが手出しのできない、と言うよりそれらがいやおうもなく消されてしまうような気分なのだ。
このような気分のことをあこがれと言うのだ。あこがれと言うのは必ずしも対象があってもよおす気分ではない。
この気分は、「私」という意識の知らない所までもよく知っていて、私という意識は翻弄されるように連れ廻されるのである。それに引き換え、私は私の気分のどれ程までを知っているのだろう。
六条の御息所の意識は、自分の知らない「私の世界」の広さに驚き動顛するのである。
                          
 
私がこの葦叢に来たのは作品にする葦を採取に来たのだった。
 
私の「葦」は葦を真似ることに終止する。
「真似る」。そのものを忠実に再現するわけではないのだが、極めて良く似た行動を採ることであり、この場合、形を写すことである。
そこでは「私」という意識はあまり必要無い。手を使ってその葦の有様をひたすら写すのである。

手も気分同様「私」という意識にとっては厄介なものである。手は「私」の知らないものを、次から次へと「私」の目の前に引っぱり出してくるのだ。「私」という意識は手に製作を促しながらも、手のつくり出すものを全く知らないというのが現実である。
                          
私は葦のちょうど腰の当たりを握ってみる。
その太さが私の手に心地よさを感じさせ、私の臍の辺りから足の爪先に向かってくすぐったいような感覚が走り抜けて行く。
 
手で何でも触ってみるのは幼児性の現れだと言う向きもあるようだが、しかし、手は、目や知性の知らないことをずいぶん沢山知っているのだ。だいいち、手は、胸を締め付けるようなあの切ない、ふいに何処からか私の気分と手の中に訪れる優鬱なあこがれを知っている。
手を主体として彫刻を考えてみるならば、手は、何を作るのかを問題にすることはない。手はひたすら量と塊をあこがれるのである。その結果、いくばくかの粗末な塊を生むことになるのだが、手にとってその形はそれほど重要ではない。この場合、形は見られることを意識した、量と塊の作る愛嬌のようなものでしかない。
 それより、手にとっては、その切なさに痛い程あこがれて、粘土やWAXの表面を行ったり来たりして考えあぐねたそのいじましい程の痕跡の方がより重要なのである。
                         
私は、妖しい気分を堪能しながら、葦叢の中を行ったり来たりする。
六条の御息所の魂も時には加茂の河原の葦叢の中をさまよい歩いたのだろうか。

2002.05.19 山崎豊三

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