09-08 (untitled)2009, S8, oil on canvas ![]() 11-23 (untitled) 2011, P100, oil on canvas |
竹内 義郎展 TAKEUCHI Yoshiro 2011.10.17(月)―10.29(土) | 作家コメント | 実際にそのような遺物が存在し、人々に見られていたかどうかはともかく、描かれたものの方は、人の手によらない、つまり本来絵画化され得ない像が絵画化されることで存在し、同等のものとして顕現しているということになる。ここでは絵画の中の一つの表現が、その出自との間で矛盾を孕みながら存在している。その矛盾を克服するものは、受難に対しての想起であり、聖顔を仰ぐことへの切望に他ならない。画面の中に広げられた布は、まるでこれから描かれる画布のように、「真実の像」の到来を準備する。そうして、単に故事から派生した絵画としての次元ではなく、本来のものを侵犯しながら、幻のように、幻として、そしてついには「そのもの」として、リアリティを伴って観る者の前に顕れる。 「可視化された何ものか」として絵画は存在する。美術作品とは何か、と問われたなら、乱暴な答えかもしれないがそのように答えることも可能だろう。しかし私たちは絵画の中に本当にあらかじめ視覚化されたものとしてイメージを捉えているのだろうか。そうではなくて、私たちが絵画を通して得ることができるのは、イメージの可視化ではなく、私たちが見ることを通してのみイメージが行きつくことのできる、ひとつの「視」なのではないか。それはあくまでも私たちの外側にあって、「視」によって結ばれた「像」として、それまでは可視化され得なかったものに私たちを送り届ける。先のヴェロニカの布もマンデリオンもおそらく布の上に残された顔の痕跡は鮮明なものであるはずもない。しかし、それは見られなければならないものとして存在し、ひとびとが見続け、想いをよせることで「像」は形成されたのでなかったのか。 絵画が平面の上に何かが写し取られたものだとするなら、それは本来どこか幻めいたものと言えるかもしれない。顕れたものが幻であるなら、それは私たちに見られたその時から、逃げ、消え去ろうとする。不可視であったはじめの姿へと「像」は帰還していく。幻でもいいから見ることができたなら、と思うのはきわめて真摯な望みだ。 失うことに傷つき、たとえ無意味さの只中にあるとしても、私たちの内には見ることによって意味のあるものとして輝いてくるものへの待望が蓄積している。 「視」によって引き寄せられる「像」との邂逅。 絵画とは、そのための幸福な装置なのだろうか。 2011年10月 竹内義郎 参考:キリスト教美術図典 中森義宗 柳宗玄 編 イコンのかたち 高橋保行 著 キリストの身体 血と肉と愛の傷 岡田温司 著 肖像の眼差し ジャン=リュック・ナンシー著 岡田温司・長友文史 訳 →2004 →2007 →作家略歴/Biography |
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