なびす画廊

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「初國」
2013年、キャンヴァスに油彩
193.9x130.3cm(F120)



「青いエノコロ草の穂が静かに私の頬を撫でるのだから
目玉一つでいらっしゃいな」

2013年、キャンヴァスに油彩
162.1x162.1cm(S100)

企画
橋本 倫 展 「天地根元社」
HASHIMOTO Osamu
2013.09.02(月)―09.14(土)
※土曜5時まで、日曜休廊

               渇く井戸

 “アート”は、社会福祉活動や、連帯表明運動やコミュニティ活性化プログラムや地域振興策等
に特化した。“アート”を通じて何ができるのか?という設問は不動の前提となり、“アート”は
社会参加を促すための触媒又はツールにまで成り下がった。つまり、保険の如く、社会安全保障上
のツールとして機能し、美術に不可欠の昂揚感などそこには無い。津波や地震や原発問題や人権闘
争を“アート”を通じて社会化し、問題意識共有の場としても構わないが、それは芸術でも美術で
もない。人々を鼓舞するための祝祭的社会現象或いは祭礼、若しくは時事批評に過ぎない。黄色い
服を纏った巨大人形は、アート界という芸能界に住む芸能人が手掛けた、芸術的には完璧な駄作だ
が、開き直ったような祝祭的イベント空間にはこの上無く相応しい。ヴェネツィア・ビエンナーレ
同様、巨大招き猫(アート)だからである。しかしそれは、人々を活気付ける社会的張りぼてであって
美術ではない。私は、人々を前向きにさせる神輿のような肥大アートよりも、絶望させる極小の美術の
方を取る。私は大阪のイベント屋ではなく、画家だからである。美術にはコミュニケーションの断絶
が不可欠だが、“アート”は常に最先端のコミュニケーション・ツールに淫するネットワーク・フェ
ティシストである。インタラクティヴ等と、はしゃぎ騒ぐ由縁である。繋がることに昂揚感は無い。
絆は“アート”の情婦であり、美術の敵である。“アート”の浮揚感は絆から生じるが、美術の
昂揚感は孤絶から生まれる。緩やかで気分的な連帯感を昂揚感であると錯覚させるに過ぎない偽
善の最たるものである、「環境的まったりコミュニティ」を国民ならぬ“市民”の間に形成する
“アート”なるものを、私は美術から峻別する。
 私の描くものは愈々非-社会化され、俗なる共感も感動も齎さず、まるで理解の得られない、感覚の
総体たる形而上的幻影の塊りと化すだろう。それは世俗社会の価値観で無駄なもの、無意味なもの、
無価値なものである。それは取り付く島も無い言語化不能のヴィジョンを提供するから、描いた者を
含めて無きも同然に扱われる。美術たる絵画が齎す昂揚感は、“アート”の世俗性とは徹頭徹尾無縁であ
る。寧ろ数学に近いか、数学そのものである。数学は絵画のように理詰めであり、且つ直感的である。
そのようなものだけが真の昂揚感と真のコミュニティとを齎すのだ。

 絵画は蒸留水よりも無味無臭で、動画のようにも動かない。CGの派手な衝撃感も、世事との関連も
看られない。グラフィックな分かり易さも、お湯を注いで3分で味わえる甘ったるい絆の感動も無い。
アート的な共感もアート的な喜びもアート的な興奮もアート的な連帯感も何一つ味わえない。
“アート”的には徹底して無意味な代物であるから、人々の関心をそそらない。感動を“与えられ”
たいのであれば、仁王立ちする黄色いお化け人形や井戸からせりあがる安っぽい怪物の待つワンダー・
ランドを訪ねれば良い。そして“アート”ならではの飢えと渇きとを楽しめば、もはや事足りるのである。

                     ―――“この井戸の水を飲む者は、また渇く”

                           平成25年7月11日酷暑の日に
                      




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